2012年12月22日土曜日

冷たい雨

ネット上で、長く音信不通であったかつての知己の名を見つけ、嬉しくなる。
彼の語る言葉自体には哀しくなったものの。

今は耐える。
哀しき理想を今なお語るあなたには、元々視えていなかった筈の、この場所で。

三連休の初日、外は冷たい雨。

2012年12月9日日曜日

流水書房青山店、年内で閉店

青山ツインタワー内の書店、流水書房青山店が年内で閉店と聞いて、驚いた。
既にTwitter等でも情報が流れている(追記:青山ブックセンターのサイトにも掲載)。
12月28日が最終との由。

お会いしたことはないが、業界でも有名な、文学に造詣の深い書店員さんが居て、ユニークな棚作りをされていた。以前、作家・川崎彰彦のミニフェアを開催していた際に行ってみたが、川崎彰彦のフェアに兄の英文学者・川崎寿彦の本を並べるマニアックさに一驚した記憶がある(こちらの記事参照)。その後もたまに棚を覗きに行ったりしていた。

残念という他ない。閉店までに一度行っておきたいなあ。

追記:メインブログにも記事を書きました(流水書房青山店の閉店について)。



2012年9月16日日曜日

九鬼次郎「鏡」

鏡 九鬼次郎

鏡を覗いてみたとて何の慰めになろう
鏡の中に秋の女が蒼ざめている
過去になってしまうと
すべてが僕には味気ないのだ

鏡には接吻の匂いもしないし
やさしい女の頬もうつらない
ただ抜け毛のような憂鬱が
僕のあたまにはびこるばかりだ

ああ 鏡の向こうに
女からの音信の数々が
枯れ葉のように積もり 埋もれている

―足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(1970年・理論社)より

いのちとしての過去、可能性としての過去〜足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(3)へ戻る

九鬼次郎「奇形児の歌える」


奇形児の歌える 九鬼次郎

私が巷を行くと
人々の瞳は急に異様な輝きを帯びてくる
それは私が歩み去った後を
必ず一抹のうそ寒い風が流れるからであろう


奇形の私を人々は
しんしんと闇空を星よりくだって来た
深夜の恐ろしい妖精と見るらしいのだ

よろしい
私は一個の怪奇な妖精ともなろう
奇形 奇形
烙印の中で今はもう蒼冷めている私ではない

私の存在は人々に妙な不安を唆るのであろう
人々のおどおどした神経の慄えを
私は頭のてっぺんに判然と知ることが出来る

ああ 星から下ってきた深夜の異端!
星の子なれば星の子の如く
時には激しい光芒の輪に包まれる私でもあろう

私の歩みゆくところ
人々の胸に一条の業火が突ッと燃えあがる日を
人々が無尽の力に鞭打たれて驚愕に悶絶する日を

―美しい混滅の一瞬よ
その日を私は密かに予期することができる
それゆえ
人々の中で私の目はつめたく見開かれているのだ


―足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(1970年・理論社)より

いのちとしての過去、可能性としての過去〜足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(3)へ戻る

2012年6月16日土曜日

人類滅亡期と次の高等動物(メモ)



◆最近図書館や資料館で古い雑誌や資料を閲覧する機会が多いのだが、どうも逆に中々新鮮で、元々の目的を離れて記事や広告に目が止まってしまう事が多い。頭痛薬の「ノーシン」って戦前からあったんだなあ、とか、精力剤だの、「強力治淋新薬」だの、ソッチ系の広告多過ぎるなあ、とか。

◆そんな中、戦前の総合雑誌「改造」1931年6月号の「新刊紹介」なるコーナーに掲載の、次のような書籍。

「人類滅亡と次の高等動物」村上計二郎著
“人類は暫時に滅亡して滅亡し次の高等動物はカンガール族より出ずるだろうと説く研究(東京日本橋東京駅東口角・萬里閣・値一円八十銭)”

なんだこりゃ 。「カンガール族」・・・カンガルー??

・・・有袋類が人類に代わる知性として登場するという発想は、どうも尋常ではなく思える。ちょっと手塚治虫っぽいとも思う。「来るべき世界」や「鳥人大系」っぽいノリだ。読んでみたら全然違うんだろうとは思うが。
敢えて探そうと迄とは思わないが、そのうちどこかで出くわしたら読んでみたい。


◆なお、著者の村上計二郎は如何なる人物だったのかは不明。
しかし、国立国会図書館サーチなどのネット検索によれば、「幽霊の実在と冥土通信」(1927年・日本書院出版部)「店員読本」(1930年・第一出版社)「非常時対応 転業と転職」(1938年・実業之日本社)等々、オカルト系から実用書まで、数冊の著作があるようだ。
大衆向けに手広く手掛けるタイプの作家かライターだったのだろうか。
(馬場鍬太郎との共著で「南支五省の現勢」(1939年・三省堂)なる本まである。なお馬場は東亜同文書院教授を務めた人物。さすがにこれは同姓同名の別人だろうか?。うーむ。)

2012年6月9日土曜日

伝承詩としての「骨のうたう」


◆戦争で夭折した詩人・竹内浩三の代表作「骨のうたう」が、実は親友の中井利亮によって推敲(改変)されて世に送り出されていた事実は、今や関係者の間には広く知られている。

しかし、このことがまだあまり知られていなかった1984年当時、作家・詩人の足立巻一は「骨のうたう」の原稿が現存せず、中井本人に尋ねても判然とせず、成立年代も不明であることを「かねてから感じていた困惑が深まる」としながらも、次のように書いている。

「そこで、わたしは思うのだ。「戦死やあわれ」に始まる「骨のうたう」は、今度の戦争が生んだ伝承詩であり、それでよいのではないか、と。」  (「人の世やちまた」1985年・編集工房ノア)

竹内本人の作家性ではなく、或る一個の戦争詩が伝えられていったという事実そのものを重視する場合、この足立の解釈も「有りは有りかな」という気もする。 

2012年4月21日土曜日

自分と皮膚、ちょっとエロティック

 黒川(創)「これが小沢(信男)さんなんだと思うのは、小沢さんの作品って、ご自分のことを書いているようでいて、そこから小沢さんの個人史をとろうと思ったら、ほとんどとれない。よくわからない。なんでこの人、二四、五になって日大行っているんだろう、とかね。よくわからない。ぽこっと浮いてくるだけで、それがほんとうに物書きだったんだな、という感じ。
山田稔さんも、タイプは違うけど、それは確かにそうなの。そういう物書きは、作品の皮膚が、生身の自分のままではなくなっている。でも、皮膚は皮膚。そこが、ちょっとエロティックな関係というか。

津野(海太郎)「もちろんそうだろうね。ひねくれたダンディズムだね。」

黒川「うふふ。そうだね。」

津野「自分は自分、皮膚は皮膚というのはいいな。」

黒川「うふふ。小沢さんのはしゃれてる。それが「新日本文学」のなかにあったということは、文学史としても大事なポイントだと思う。」

小沢信男・津野海太郎・黒川創「小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか」(2011年・編集グループSURE)より

編集グループ<SURE>HP

2012年4月18日水曜日

ベルタ・ゲール メモランダム

◆「猪俣の生涯の負担となったのがベル夫人であった。彼女はポーランド生まれのユダヤ人でドイツ語を話したが、15年の日本滞在にも関わらず、異国の風俗習慣になじまず、革命家としても猪俣の妻の座にはいなかった“不幸な妻”だった。」
(「猪俣津南雄 〜戦斗的マルクス主義者」1970年「猪俣津南雄研究」第1号・猪俣津南雄研究会)

◆(俳人・河東碧悟洞曰く)「猪俣が検挙-第一次共産党事件-された留守中、僕はたびたび見舞ったが、外人なのにタクワンや味噌汁でご飯を食べていた。感心な婦人でしたよ。それと別居したとは猪俣が悪い。」
(長岡新吉「日本資本主義論争の群像」1984年・ミネルヴァ書房/鈴木茂三郎「鈴木茂三郎選集第2巻」1970年・労働大学)

◆「猪俣が私に話したところによると、「たくさんな大学生のなかで、ある日ふと背の低い日本人の婦人をみつけてハッとしてよくみたら、日本人でなく背やかっこうまで日本人によく似たポーランドの婦人学生だった。会話を習得するには外人と結婚することが第一だと思って結婚した。ところがこれが猛烈なボルシェビキでねえ」といった経緯であったようである。われわれは夫人を通称「ベル」とか「おスズさん」とかよんだ。」
(鈴木茂三郎「鈴木茂三郎選集第2巻」1970年・労働大学)