2012年4月18日水曜日

ベルタ・ゲール メモランダム

◆「猪俣の生涯の負担となったのがベル夫人であった。彼女はポーランド生まれのユダヤ人でドイツ語を話したが、15年の日本滞在にも関わらず、異国の風俗習慣になじまず、革命家としても猪俣の妻の座にはいなかった“不幸な妻”だった。」
(「猪俣津南雄 〜戦斗的マルクス主義者」1970年「猪俣津南雄研究」第1号・猪俣津南雄研究会)

◆(俳人・河東碧悟洞曰く)「猪俣が検挙-第一次共産党事件-された留守中、僕はたびたび見舞ったが、外人なのにタクワンや味噌汁でご飯を食べていた。感心な婦人でしたよ。それと別居したとは猪俣が悪い。」
(長岡新吉「日本資本主義論争の群像」1984年・ミネルヴァ書房/鈴木茂三郎「鈴木茂三郎選集第2巻」1970年・労働大学)

◆「猪俣が私に話したところによると、「たくさんな大学生のなかで、ある日ふと背の低い日本人の婦人をみつけてハッとしてよくみたら、日本人でなく背やかっこうまで日本人によく似たポーランドの婦人学生だった。会話を習得するには外人と結婚することが第一だと思って結婚した。ところがこれが猛烈なボルシェビキでねえ」といった経緯であったようである。われわれは夫人を通称「ベル」とか「おスズさん」とかよんだ。」
(鈴木茂三郎「鈴木茂三郎選集第2巻」1970年・労働大学)


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