2012年9月16日日曜日

九鬼次郎「鏡」

鏡 九鬼次郎

鏡を覗いてみたとて何の慰めになろう
鏡の中に秋の女が蒼ざめている
過去になってしまうと
すべてが僕には味気ないのだ

鏡には接吻の匂いもしないし
やさしい女の頬もうつらない
ただ抜け毛のような憂鬱が
僕のあたまにはびこるばかりだ

ああ 鏡の向こうに
女からの音信の数々が
枯れ葉のように積もり 埋もれている

―足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(1970年・理論社)より

いのちとしての過去、可能性としての過去〜足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(3)へ戻る

九鬼次郎「奇形児の歌える」


奇形児の歌える 九鬼次郎

私が巷を行くと
人々の瞳は急に異様な輝きを帯びてくる
それは私が歩み去った後を
必ず一抹のうそ寒い風が流れるからであろう


奇形の私を人々は
しんしんと闇空を星よりくだって来た
深夜の恐ろしい妖精と見るらしいのだ

よろしい
私は一個の怪奇な妖精ともなろう
奇形 奇形
烙印の中で今はもう蒼冷めている私ではない

私の存在は人々に妙な不安を唆るのであろう
人々のおどおどした神経の慄えを
私は頭のてっぺんに判然と知ることが出来る

ああ 星から下ってきた深夜の異端!
星の子なれば星の子の如く
時には激しい光芒の輪に包まれる私でもあろう

私の歩みゆくところ
人々の胸に一条の業火が突ッと燃えあがる日を
人々が無尽の力に鞭打たれて驚愕に悶絶する日を

―美しい混滅の一瞬よ
その日を私は密かに予期することができる
それゆえ
人々の中で私の目はつめたく見開かれているのだ


―足立巻一「鏡〜詩人九鬼次郎の青春と歌稿」(1970年・理論社)より

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